寺内町に残る町家 OLD HOUSING

貝塚のまちには、江戸時代後期から明治、大正、昭和の伝統的様式の町家が数多く残されています。ここでは、国の登録文化財に登録された13軒を紹介します。現在もお住まいされているお宅も多く、内部は原則として非公開です。

並河家住宅
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卜半家の家来衆を勤めた家です。外観は町家形式ですが、内部は式台玄関を備えた武家風のつくりになっています。主屋は天保3年(1832)、土蔵は江戸時代後期の建築です。

山田家住宅
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卜半家の家来衆を勤めた家で、江戸時代末期から古美術商を営んできました。主屋は江戸時代末期の建築で、玄関に設けられた吊り下げの大戸が特徴的です。

竹本(久男)家住宅
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昭和初期まで、つげ櫛の製造業を営んでいました。もとは別構造の2軒の建物で、東側の主屋は江戸時代末期の、西側の主屋は昭和7年頃の建築です。

利齋家住宅
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織田信長兵乱の時に貝塚に来住したと伝わり、江戸時代には薬種問屋を営む有力町人でした。主屋の建築時期は17世紀と考えられ、寺内町に残る最古の町家です。

岡本家住宅
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屋号を唐津屋といい、江戸時代には醤油醸造業を営む有力町人でした。主屋は18世紀中期の建築と考えられます。増築された角屋座敷には天保12年(1841)の棟札が残されています。

宇野家住宅
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屋号を金屋といい、江戸時代には泉州鋳物師仲間に所属して、鋳物業を営んできました。主屋は安政地震(1854)後の建築と伝えられています。

尾食家住宅
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代々、旅籠屋や両替商を営み、幕末には干鰯屋や木綿仲買なども営んでいました。主屋は天保10年(1839)の建築で、紀州藩主が参勤交代の時に立ち寄って食事をしたことから、「おめし」と呼ばれるようになったと言われています。

竹本(章次)家住宅
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主屋は、古家を購入して内部を改装したものです。正面に出格子や与力窓を配し、東側の無双窓からは願泉寺を望むつくりであることから、卜半家の家来衆の屋敷であった可能性があります。

廣海家住宅
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天保6年(1835)、卜半家から「廣海」の姓を与えられて諸色問屋を始めました。戦前までは肥料商を営む一方、貝塚銀行などの設立にも関わりました。屋敷はほぼ一街区を占める広大なもので、主屋は江戸時代末期の建築です。

吉村家住宅
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屋号を泉久といい、江戸時代中頃から油屋や両替商を営む有力町人でした。主屋は、内外ともに増築や改造が多くみられますが、18世紀中頃の建築と考えられています。

名加家住宅
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大正頃までは、つげ櫛の卸問屋でした。主屋は、18世紀中期から後期の建築と考えられ、隣接する建物は明治初年に卜半家の家来衆の屋敷を移築したものと言われています。

南川家住宅
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昭和初期の路地景観の面影を残す住宅です。主屋は木造2階建で、古材を転用して昭和2年に建造されました。離れは、明治前期の建物です。「明治・大正・昭和暮らしの資料館」として活用されています。

寺田家住宅
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岸和田の寺田家の一族で、鋳造業を営んでいました。昭和11年(1936)に大丸百貨店の設計により建築されたものです。主屋は外観を洋風にした木造住宅で、隣接して茶室、内蔵、外蔵、納屋があります。昭和28年(1953)には、高島屋の設計により鉄筋コンクリート造の新宅が建てられました。