天正15年(1581)に記されたという「貝塚寺内基立書」によりますと、貝塚の地は、往古五丁余りの松原で民家三十六軒と庵寺がありました。庵寺は奈良時代の僧、行基の開基と伝えられ、応仁年間(1467~69)には本願寺第八世蓮如上人が立ち寄り、教えを説いたといわれています。
天文14年(1545)、村人達は無住であったこの庵寺に京都の落人、右京坊を迎えます。右京坊は卜半斎了珍と名乗り、天文19年(1550)には本願寺第十世証如上人より「方便法身尊像」を下付されます。天文24年(1555)には、貝塚は石山本願寺より寺内に取り立てられ、一向宗の門徒による環濠城塞都市「寺内町」の建設が始められたのです。
天正4年(1576)、天下統一をめざす織田信長は、最後の難敵である石山本願寺に対し総攻撃を開始しました。貝塚の門徒衆も石山本願寺を支えるため、雑賀衆とともに戦いましたが、貝塚は天正5年(1577)に信長軍の攻撃を受け、町は焦土と化したといわれています。天正8年(1580)、石山本願寺が信長と和睦し、第十一世顕如上人が紀州鷺森へ退去しますとようやく平和が戻り、貝塚の町も復興されました。天正10年(1582)には、信長を引き継いだ豊臣秀吉から貝塚に対し「禁制」が発せられ、諸役免除と寺内が公認されました。
天正11年(1583)7月、顕如上人は紀州から貝塚へその本拠を移し、これより二年余りの間、貝塚は本願寺の本山となったのです。貝塚の町の興隆は想像に難くありません。
慶長十五年(1610)、卜半家第二世了閑は徳川家康より寺内諸役免許の黒印状を授与されます。これにより、卜半家は地頭(領主)として明治維新まで貝塚寺内を支配することとなりました。すなわち、貝塚の町はどの藩にも属さず、幕府の直轄地でもなく、卜半家が町の家来衆とともに治めるところとなったのです。町には人々が集まり、商工業が盛んとなって泉州随一の発展を遂げました。願泉寺に伝わる慶安元年(1648)に描かれた町絵図を見れば、当時の繁栄がしのばれるとともに、当時の町割り(道路網)や寺社がその姿を現在にそのまま引き継がれていることがよくわかります。寺社の建物や町家の多くは、長い年月を通じ守り伝えられてきたのです。